書評
伏島正義「スウェーデン中世社会の研究」
-法典にみえる北欧社会-
(刀水書房、1998年)

角谷 英則

『史学雑誌』
第108編第2号
1999年2月

 本書は一九七九年から八九年の間に著者によって発表された中世スウェーデンに関する論文を収録したものである。中世スウェーデン史に関する国内での研究蓄積は依然極めて少なく、本書のようにとりわけ法典に注目し、それを史料にもちいた研究は著者によるものを除くと事実上、皆無といってよい。そのような状況のもとで本書が出版された意味は大きいが、なかでもスウェーデン中世に由来する諸法典の、著者による相当量の日本語訳が過去に出版された諸現代語訳も参照した上でなされ、対応する原史料のテキストとともに収められている点が注目に値する。以下、本稿でその書評を行うにあたって、まずその内容をなるべく著者の用語を用いつつ要約、紹介し、その後に問題点をとりあげ論じるというかたちをとりたい(ただし、第五章の要約になっている第六章は重複を避けるためとりあげない)。

第一章 中世スウェーデンのゴットランド社会

 十三世紀末に成立したゴットランド法典では、債務奴隷が裁判で有罪となって賠償しなければならなくなった時には主人がそれを立て替え、その分「期間」が延長されることが規定されている。奴隷による殺人、奴隷の身体束縛終了に関する他の諸規定と照らし合わせるならば、この「期間」とは債務奴隷としての奉仕期間と考えられ、奴隷は法理上、自由回復可能な期限付債務奴隷としてあった。しかし、同時に奴隷売買に関する規定が存在し、奴隷が犯罪を犯した際、奉仕期間が延長される場合があったことなどから、一旦債務奴隷に陥ってしまうと、生涯奴隷として主人に隷属することになった場合が少なくなかったと考えられる。ところで、ゴットランド法典には五種の「平和」とフェーデ(自力救済慣行)回避のための詳細な手続きが定められているが、これはフェーデ慣行の現実性を露呈している。別に規定された土地処分の非親族への譲渡・売買に関する厳しい制限、相続期待権は、そのようなフェーデの回避・平和の達成を可能にする支払手段、具体的条件を保障するものであった。しかし、無主地占取等に関する規定からは有力者への土地集中、自由農民の没落の傾向がうかがわれる。分解の危機に瀕する自由独立農民層の側に法理はたち、そのような傾向を阻止しようとしていた。奴隷が法理上のみ自由回復可能であった背景を成しているのはそのような法理と現実の対立、矛盾である。

第二章 中世スウェーデンにおける土地所有形態
-旧ヴェストイェータ法書を中心にして-

 牧草の利用等に関する規定からは、土地「所有」者が排他的に土地利用権を享受したのではないことが知られ、農民の土地所有は暫定的な性格の占有であったことがわかる。これは全村規模で行われる耕地再配分からも確認され、それを実施することができた根拠には「所有」地が「占有」地としての性格をもっていたことがある。また屋敷地の有無、かかえる耕地の広狭、諸義務の履行如何によって共同地の利用権に違いがあり、共同体成員の間には経済的社会的格差があった。他方、共同体には水車設置者の要求があればそこに至る道路を建設する義務、教会への道、干し草運搬用の道を確保し、共同地への居住を制限する任務があった。これらのことは共同体が個々人の利害を越えた統制力を保持し、かつそれが現実的に機能していたことを明示している。すなわち、共同体の統制力と個々人の実力に基づいた主体的「所有」という二律背反が土地「所有」の実体である。

 窃盗、殺人に関する規定からは、一定の規制が加えられようとしていたにも関わらず依然としてフェーデが顕在していたことがわかる。第三者的機関を媒介とする解決方法も提示されていたが、その解決方法をとるか否かは被害親族の意志に依存していたからフェーデは顕著にならざるをえず、農民は実力に依存して生計を営まなければならなかった。土地「所有」も実力のみによって保障された。土地「占有」は他人の潜在的利用をまったく排除するのではない点において、西欧中世において観念化されたゲヴェーレ(ゲルマンにおける物権法上の基礎観念で事実的支配を表象)とは異なり、動産を客体とするような古代的ゲヴェーレが保持されていた。また、個々人を成員とする村落共同体(種々の集会)において、農民は自分たちの問題の解決をはかったゆえ領主裁判権成立の条件はなく、法典に現れる「地主 - 借地人」の経済関係から「領主 - 農奴」という階級関係が存在したと言うことはできない。

第三章 中世スウェーデンにおける自力救済慣行
-旧ヴェストゥイェータ法書を中心にして-

 西欧と北欧の二つの中世社会においては、基幹的生産者である農民はともに一定の社会的経済的実力者であったが、その実力の根拠としては自力救済権の享受が挙げられる。個人に対する加害は、すべてその所属する氏族にたいする名誉侵害として認識され、その復讐は同害報復のみならず、氏族の名誉回復を目的とした。このようなフェーデは初期の段階においては無制限に行われたが、時代を経るにしたがって制限が設けられるようになった。しかし、「実力の分割」を本質的特徴とする封建社会のもとでフェーデ慣行は継続し、その根絶には近代を待たなければならなかった。

 当該法典では、一定以上の金額の盗人は報復として場所を問わず自由に殺害されることが規定され、自力救済が示されている。しかし、家宅侵入者を自由に殺害してよいという「家の平和」に関する規定もあり、これらの両規定は盗人の追跡が盗人の家屋内に及んだときに矛盾をきたすことになる。これは血讐が第一義的に尊重され、したがって「家の平和」が無視される傾向にあるという社会の実情に対してそのための措置が執られたことによって、従来の社会慣行を追認する規定とそれに制限を加える規定が併存することになったためである。

 殺人に関する規定においても、被害者が自由人であればフェーデが認められていた。フェーデ以外に、殺人犯の平和喪失、賠償による解決方法もあり、特に裁判集会において成立した贖罪協定履行は平和喪失をもって強制されていた。しかし、自力救済に訴えない、賠償による方法の選択は被害者親族の任意性にまかされており、賠償による解決は不名誉と考えられたこともあって現実ではフェーデが第一に重視された。にもかかわらず贖罪協定履行強制が規定されているのは、法典において、伝統社会慣行を反映する「現実」とそれを制限しようとする「当為」とがそのまま二重写しされていることによる。このような社会状況は、国家的公権が成立の緒についたばかりの段階であったことを示し、カルマル同盟成立まで継続した、北欧三国にまたがる政治的混乱と符合する。

第四章 中世スウェーデンにおける土地所有形態
-ウップランド法典「村落の章」を中心にして-

 当該法典の耕地に関する規定によると、耕地配分はすでに一定の家屋敷、耕地を持つ農民によって自律的に行われた。その家屋敷の大小、位置関係は、豚飼育や漁業などの他の生産活動において、その権利の有無、大小の基準となり、農民間には経済力の格差があった。また、それらの諸規定からは、生産手段が個人に属していたこともわかる。開墾地も柵の設置や実際の居住などを条件として個人に利用権が認められ、すなわち当該社会における経済活動の手段、対象は個人的に確保され、個人的積極性に依存して拡大された。とりわけ土地は自他の区別がはかられ、安定的に確保され続けることが必要であったから境界標示の設置が義務づけられていた。しかし、個人に責任のある柵の設置、撤去は隣人と相呼応して一斉におこなわれ、農業暦は共同体的統一の下に展開された。収穫作業をなんらかの事情により行えない個人に対する、隣人による援助も規定されているが、これは耕地がそもそも共同体的利用の対象であったためである。家畜が抵当流れになる場合の人々への報告義務や、抵当物の返還要求に際しての証人等に関する規定でも、債権、債務というすぐれて個人的な関係に対して共同体が関与していることがうかがえる。ところで、諸規定からは家屋、耕地、家畜は賃貸の対象になりえたことがわかるが、それに対して泥炭は賃貸の対象になりえなかった。これは、日常生活にとって不可欠な必需品として認識されていた泥炭の賃貸、売買が行われると、共同体成員間の貧富の差が拡大する事態となりかねないため、それをあらかじめ阻止するために設けられた規定である。つまり、共同体は構成員の経済的、社会的分解を阻止すべく、積極的に日常生活に立ち入り配慮していた。土地は所有形態においても利用形態においても個人的かつ主体的原理と共同体的原理という二律背反的関係のもとに存在していたが、その共同体規制は成員間の「平等」維持に対する配慮も含む、農民の活動を互いに保障しあうものとしての相互規制であった。

第五章 中世スウェーデンの社会とその土地所有形態
-ウップランド法典を史料として-

 中世スウェーデンで最初に王の裁可を受け、成立した当該法典には王権の反映が見られ、海外遠征および軍役負担は王権の命令に基づくことが規定されていた。そのような軍事的諸負担や遠征は一定の経済的条件を具備した定住農民を中核とし、一定の隣人共同体を単位として支えられていた。また、王とその役人には裁判開催権、調査権も認められ、王権は聖・俗両界における優越性を有していた。

 軍事的負担の単位として機能した村落共同体は、家畜・土地の入質、受け戻しに際して共同体への公開が規定されていたことに見られるように、個人的債権、債務関係の重要で不可欠な要素であった。借地契約の解消、獲得した土地の処分、教会・橋の建設、狩猟用罠の設置、婚姻、社会的弱者の保護にも共同体による規制が定められ、王権のもとでの軍事負担もあわせるなら、それを担ったのが一定の経済的条件を享受する定着農民であったとしても、その社会的自立性については否定的な印象を逃れない。しかし、諸規定から日常的な出来事であったと思われる敵軍来襲や戦闘行為に対処するため定められた歩哨義務にその根拠があったように、受動的なものとして認識される共同体規制は自治の裏返しであった。王権に基づく兵役も村落自治と矛盾する対立的要素ではなく、兵役義務はむしろ定着農民の権利だったと言える。「自治権」代表者が兵役諸負担徴収に積極的に関わっていたことや、歩哨よりも生産活動、生活が優先されたことを示す規定からも、歩哨は農民の主体的行為であったこと、村落共同体が自治権を享受する自立的存在であったことがわかる。また、共同体は各段階の集会によって日常生起する諸問題を処理し、共同体規制によって積極的に内部的調整、結合をはかっていたのであり、その構成員を疎外せる否定的要素ではなかった。主体性、自立性を有する農民を中核とし、王権と競合、協力しつつ自治権を享受する自立的存在だったのである。

 相続によって獲得された土地の売却や殺人等に関する規定からは、当該社会において氏族の団体性が充分機能しており、自力救済の典型としてのフェーデ慣行は依然として新鮮で活気に満ちていたものであったことが明らかである。この慣行は問題解決の唯一の手段であったわけではなく、金銭的賠償によって贖われることもあったが、その方法をとるか否かは被害親族の自由意志に委ねられており、社会的感情からして不名誉な臆病者のとる手段であるとされていたことなどから、一般的かつ現実的解決手段であったとは考えられない。フェーデ行為が公開を旨としているのは単に社会的に公認されていた慣行であったからだけではなく、被害親族の権利であると同時に義務でもあったからである。このようなフェーデの潜在的不安がもとになって、フェーデから逃れることのできる空間・時間、すなわち各種の「平和」が設定、尊重された。しかし、当該法典での「平和」に関する詳細な規定は、「平和」破壊の蓋然性とりわけフェーデ慣行の普遍性をむしろ裏書きしている。表裏一体を成していた「平和」とフェーデは、当該法典の背景となる社会的状況が前国家的状態にあり、国家的公権が充分に備わっていなかったことを示している。したがって、定着農民は独立自営の農民であったのみならず、社会的にも実力に基づく独立自営を所与の要件とする農民であった。そうした農民が社会的に「人格」を認められ尊重されたことは、理由を欠く束縛、逮捕に対して、最も忌むべき背反行為と認識された密殺と同額の補償が規定されていたことから知られる。

 当該法典では、被雇用人や乞食、すなわち社会的経済的階層が存在していたことが確認される。これらの人々は身分としては自由人であったが、自由人といえども、犯罪に際して賠償(一マルクにつき一年)を求められた場合には自由身分を喪失しえた。加害者=債務者の逃亡に関する規定では、債務者による、債権者に対する極端な人権無視を読みとることができ、これは身分としての奴隷への転落つまり債務奴隷と規定しうる。キリスト教徒の売買と献身奴隷(債務奴隷)は別項で禁止されているが、これは自由人と奴隷の売買が現実にありえたこと、債務奴隷は現実的に発生、存在し、それに関する規定は無視できない実情があったことを示しており、つまり基軸中心的農民層の間に階級および階層分解が進行していたことを意味している。教会の平和破壊についての規定では教会と王権の提携がみられるが、キリスト教の浸透、王権の成長が必ずしも順調でなかった点を考えるならば、債務奴隷禁止規定は当為規定として機能していたと思われる。このような農民社会内部に発生した分解化傾向が自己内部では処理、統御しえない段階に至ったとき、王権と結びあう根拠が生じたのである。また、盗品に関する諸規定では、動産は抽象化された所有権、つまり「物権」により保護されているように解せられ、ここにその「所有権」を保障するための強制力、すなわち王権が担ったと考えられる一定の国家的公権が前提とされている。以上のような社会的背景のもとでの土地所有は個人主義・実力主義によりつつも、集団主義(共同体主義)と不即不離、相互補完の関係にあった。これは土地所有に関する「二律背反的所有形態」と概念規定するのが適当であり、そのありようは国家的公権との脈絡においても整合的である。


 諸法典の規定をつきあわせ、その多岐にわたる規定の内容、関連を解釈することによって設定された問題に答えていくというのが著者の方法である。その議論の過程には非常に多くの論点が含まれており、ここではその一部しか取り上げることはできないが、二つの視点から見てみたい。第一は、著者の方法にしたがって引き出された結論とその立論の過程、具体的にはスウェーデン中世社会像に妥当性があるかどうかという点、第二は史料として使われている地域法典そのものに由来する問題に関してである。

 著者が提示する中世スウェーデン社会像は一貫しており、明快である。その主要な論点としては、実力に基づいて生計を営む独立自営農民と自治的共同体の織りなす「二律背反的」関係、古代的「ゲヴェーレ」の保持、フェーデの日常性、独立自営農民の階層分解、発達初期の王権などが挙げられるであろう。これらの問題の一つ一つが、著者によって原典から直接、日本語訳かつ解釈された法典の諸規定を根拠にして論じられているのである。まず、その中で著者の立論の過程に関して、評者が感じた問題のいくつかを取り上げる。

 著者は、独立自営農民が構成する社会が階層分解を始めていた根拠として、犯罪の加害者が被害者のもとで奉仕労働を強制され債務奴隷となったこと、逃亡や再び犯罪を犯した場合には奉仕期間が延長されたこと、債務奴隷そのものを禁止する規定がその発生と存在を裏書きしていることを挙げているのであるが(第五章第四節)、ここで示されている債務奴隷の発生要因は犯罪のみであり、それをもって基軸中心的農民層の間に階層分解が進行していたことを論じるのには無理が感じられた。泥炭の賃貸禁止に関する規定も、共同体構成員の経済的社会的分解を阻止するためにとられた配慮と解されているが(第四章第二節)、著者も指摘しているように、重要な動産であった家畜の賃貸が禁止されていないことを考えると、なぜ泥炭の賃貸がとりわけ「社会的分解」に繋がるのか、説得力に欠ける。「債務奴隷の自由回復は実際上困難であった」(第一章第一節)とされる根拠も、「債務額によっては」奉仕期間が生涯におよび、犯罪を犯せば期間が延長されるということのみである。奉仕期間が生涯に及ぶような債務がいかにして発生しえたのかについての具体的検討抜きに奴隷の自由回復の可能性を否定するのは困難であろう。

 これらの問題が生じたのは、著者があまりにも性急に、その心中に仮説的に描かれた社会像に沿ったかたちで法典の諸規定を解釈しようとしたためではないかと評者には思われるのであるがどうであろうか。相続によって獲得した土地が血族外へ流出しないように、土地処分に課されている厳しい制限の理由の一つを、フェーデを回避し、和解による解決を果たすための具体的条件(補償の手段)の保障に求めているのも同様である(第一章第二節)。世襲地の保護とフェーデのあいだに関連をみるのは、独創的な考えではあるが根拠に乏しい。他にも著者は、敵軍来襲、戦闘行為が日常的に起こっていたことを示した上で、王によって課された兵役義務は自営農民の「共同体の平和と安全を守り、保障する」ものであり、「『自治』と矛盾する対立的要素ではない」と書く(第五章第二節)。しかし、兵役義務が外敵からの防衛に少なくとも法典の中では限定されていたノルウェーと異なり、スウェーデンでは遠方への海外遠征も可能であったことは、著者によって訳された規定(同第一節)に表れているとおりである。王によって課された軍事的負担の根拠は外敵からの防衛の必要だけによって説明できないのであり、この点、立論に無理があるように思われる。

 もともと、中世北欧に由来する諸法典が研究されるようになった十九世紀から今世紀初めにかけて、その中心を担ったのは、コンラート・マウラーや本書でも著者が度々依拠しているカール・フォン・アミラら、ドイツのゲルマニストであったが、その研究の発端は、ゲルマン法のより原始に近い一発展段階を、大陸法に比べ外的影響をあまり受けていないと思われていた中世北欧の諸法典に見いだすことが可能であると考えたことにあった。しかし、例えばスウェーデンの諸法典が記録されたのは十三世紀以降であり、その中にはキリスト教会等に関する、「新しい」ことが明らかな規定も含まれているわけであるから、いかにして諸法典のなかから原始の痕跡を抽出し、法典を史料として遡及的に利用するか、という方向で研究が行われることになった。形式や内容によって「法典内の年代層」を明らかにすることが試みられたのである。その後、そうした「遡及的利用」を目指す研究に対する批判と、それに対する、古典的研究とは別の視角から遡及的利用が可能と考える研究者による反批判が続いた、というのが研究史の大まかな流れである。言い換えるならば、法典に書かれていることはいつの時代の現実を反映しているのか、様々な時代の現実を反映しているのであれば、どの部分がいつの時代を反映しているのか、という問題を軸に研究が展開してきたのである(注一)。その論争からはかなりの成果があがっているものの、依然、決着にはほど遠いのが現在の状況である(注二)

 このような研究史を念頭において本書をみると、諸規定の内容、関連から社会を再構成するという著者の方法から、法典には基本的にある同時代の社会状況が反映されているとみる立場がとられていることがわかる。直接には言及されていないが、法典の編纂された時代がその内容の背景にあると考えられているようである(たとえば一九一頁)。他方で、法典は「その言われる編纂時期を遡ったある社会的母斑を伝来せるものと解せられ、したがって西欧地域では窺い知ることのできない原初的社会的状況をしる手懸りとなると判断される」(一五一頁)とも書かれているが、その詳細には言及がなされていない。本書ではこうした点を十分に展開するべきだったのではないだろうか。法典すべてが「社会的母斑を伝来せる」ということは先に述べたようにありえず、よって部分的にそのような特徴が見られるのであればどの部分がそうなのか、そのような相対的に「古い」規定が法典編纂時にも有効なものとして機能していたのかどうか。

 著者の立論の特徴の一つに、相互に矛盾する内容を含むと考えられる規定をいかに理解するか、ということがある。たとえば著者は、フェーデに際しての追跡に関する規定で場所の制限がなされていない点と、家屋内が聖域として保護され、家宅侵入者を自由に殺害できることを定めた規定のあいだに認められる矛盾について、大陸のゲルマン諸部族法典の類似規定を挙げながら次のように論じる。「一方で慣習が根強く、他方で同時にそれを規制するための国家権力が幼弱な段階にあっては、法規定は現実とは必ずしも密着しない当為規定としての性格を所詮脱することはできない」(第三章第二節)のであり、ここでは、現実に行われていた血讐に対し、それを規制するための「家の平和」維持についての規定が、現実にはそれほど有効でなかったとしても、規制の意志のあらわれとして取り入れられたと考えられている。この議論にしたがえば、もともと慣習として根強くあった血讐という「より古い」社会現実を反映している規定とそれを規制するために導入された「より新しい」規定の間には、いわば時間差があることになる。著者の方法では、法典内に内容的矛盾が含まれていないかぎり規定間の時間差が検出されることはなく、すべて同時代(法典が編纂された時代)に有効であった規定として扱われることになってしまう。他の部分において、「現実とは必ずしも密着しない当為規定」を現実を反映する規定として論じてしまっている可能性はないであろうか。

 こうした問題を避けるためには、まず法典が形成、記録されるにいたった過程を再構成し、その内容のどの部分がいつの時代の現実に由来するものであるかを定めなければならない。この作業、すなわちすべての議論の最初に位置すべき史料批判に相当する検討が成されず、抜け落ちてしまっていることが本書の最大の問題なのである。また、「地域法典は法体系に関してその記述者がうけた教育とその能力を示すだけ(注三)」という見解もあり、もし法典に現実がほとんど反映されていないとすれば、法典に基づいて社会を再構成することそのものが意味を持たなくなってしまう。したがって、史料批判には、法典のみから社会を再構成することは可能かどうかという、より根本的な問題の検討も含められなければならない。それゆえ「法典にみえる北欧社会」という副題のとおり、法典だけに基づいてスウェーデン中世社会の再構成を試みた本書の場合、史料としての法典がもつ性格の批判は不可欠ではなかったかと思われるのである。

 もっとも、研究史に容易に見て取れるように、法典の形成過程を明らかにするのは非常に困難であり、その内容に関して法典とつき合わせながら相互に検証できるような史料が存在していない以上、これまで試みられてきたような方法も含め、法典そのものからその史料としての可能性を明らかにするのは事実上、不可能といえるのが現状である。したがって、中世スウェーデン史においては、依然、法典が重要な史料群の一つであることにかわりはないのであるが、考古学、地名学、法人類学、ルーン碑文学、古銭学等から得られる知見と参照しあいながら研究をすすめていくしかないのではないかと考えられる。

 ここまで、なるべく率直であることを心がけつつ批判を行った。これを本書の評としたいが、最初に述べたように、スウェーデンの地域法典のまとまった分量が邦訳、出版されたのは本書がはじめてである。困難極まりなかったと想像されるその訳業が今後の研究者にとってもつ価値は非常に大きいことを再度強調しておきたい。しかしながら、現代スウェーデン語を含む諸言語を読者が理解することを前提にした叙述や、中世スウェーデンの法典に日頃親しんでいない読者に著しい負担をかけるような省略形の多用、擬古的な文章が本書を読まれにくくしており、また校正漏れ、誤記が少なくないのが残念である。

 本書とこの書評が中世北欧史への関心を喚起し、その議論に一石を投じることになれば幸いである。


注一 この議論の性格はサガに関してなされてきた議論のそれと非常によく似ており、サガと地域法典の史料としての性質の近似性が指摘されている。熊野聰『サガから歴史へ』東海大学出版会、一九九四年、第一章

注二 研究史は Per Norseng, "Lovmaterialet som kilde til tidlig nordisk middelalder", Kilderne til den tidlige middelalders historie. Rapporter til den XX nordiske historikerkongres Reykjavik 1987 Bind I, red. Gunnar Karlsson, Reykjavik, 1987, s.48-77にまとめられている。
 また、以下の文献が参考になる。
Ole Fenger, "Anmeldelse:Elsa Sjo"holm, Gesetze als Quellen",Histrisk Tidsskrift, Koebenhavn, 79, 1979, s. 112-24; Thomas Lindkvist, "Medeltidens lagar : Elsa Sjo"holm. Sveriges medeltidslagar", Historisk Tidskrift, Stockholm, 1989, s.413-20; Elsa Sjo"holm, Sveriges medeltidslagar. Europeisk ra"ttstradition i politisk omvandling, Lund, 1988; Thorsten Andersson,"Svensk medeltid i fornsvenskt perspektiv", Svensk medeltidsforskning idag. En forskningso"versikt utarbetad paa uppdrag av Humanistisk-samha"llsvetenskapliga forskningsraadet,red. Go"ran Dahlbeck, Uppsala, 1987, s.119-53

注三 Per Nystro"m, "Landskapslagarna", Historieskrivningens dilemma och andra studier, Stockholm, 1974, s.74

(1999年3月22日html化)


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