言語権とエスペラント学習観
la lingvorajto kaj ideoj pri
esperanto-lernado
かどや ひでのり
KADOJA Hidenori
理論的根拠としての言語権
21世紀にはいる直前に、エスペラント運動におこったおおきな変化をひとつあげるとするなら、「言語権」概念をエスペラント運動が正面からその理論的根拠としてとりこんだことであろう。言語権とは、多言語社会・複数言語社会における少数言語話者の運動の結果として、ある種の言語にかんする権利、コミュニケーションを社会生活において十分にとることのできる権利が概念化されたものである。エスペラント運動の主導的立場にあるといってよいひとびとが言語権にたいしていかに反応したかは、1996年の「プラハ宣言」にあらわれている。日本エスペラント学会の訳にしたがえば、「5.言語上の権利」において、「私たちの運動は言語上の権利の保証を目指すものである」とうたわれ、「7.人間の解放」において、「全世界的なコミュニケーションの道具として立案されたエスペラントは、人間解放の大きな実際的事業の一つである。すなわち、すべての人が各自の地域文化や言語的独自性にしっかりと根差していながらそれに制約されず、人類の共同体にその一員として参加することを可能にする」と、エスペラントの意義づけを、言語権によっておこなっている[1]。
言語権的価値という価値
エスペラントが言語権の保障にとって有用であるという、エスペラントがもつ価値のことをここではとくに「言語権的価値」とよぶことにする。エスペラントがその使用者に供与しうる価値はきわめて多様であって、そのなかにはたとえば、個人的な快の充足機能といった、普遍性のない価値もあるからである。
エスペラントに言語権的価値を付与している、つまり言語権の保障にとって有用たらしめている要素のひとつは、エスペラントが計画言語であるという点に由来する学習容易性である。学習容易性とは、学習をつうじて運用能力をえるために個々人が準備・投下しなければならない学習コストがひくいということを意味する。学習コストはさらにいくつかの要素に区分が可能である。すなわち「能力、時間、金銭」である。学習コストがひくいということは、その言語の学習が一定程度の達成をみて、学習者が運用能力をみにつけるにいたるかどうかが、学習コストの準備・投下の有無・多寡によって影響をうけにくいということを意味する。最低限の学習コストは、生活のための最低必要物資とおなじく、誰にとっても平等に必要であり、またすべてのひとびとではないにせよ、多数のひとびとが準備可能である。したがって、要求される学習コストのひくい言語は、その達成においても平等である可能性がたかくなる。つまり、機会の平等が結果の平等をもたらしやすくしているのである。投下に必要な学習コストがひくければひくいほど、エスペラントの平等主義的機能が発揮されることになり、たかい水準でその言語権的価値が実現されることになる。こうしたエスペラントの属性は言語権充足的なコミュニケーションがおこなわれるための必要条件を準備している[2]。
こうしたエスペラントの存在根拠、エスペラントが普遍的価値をうむメカニズムはきわめて単純であり、意識化されていないこともおおいであろうが、エスペラント運動従事者にとってはほとんど自明といってもよいであろう。しかし、筆者のみるところ、現在のエスペラント運動の実態、エスペラント運用の実際のありかたと、エスペラントの理論的根拠のあいだには相当な距離がある。つまり「現実」が「理念」と矛盾をきたしている。この矛盾がもっともあからさまになっているのが、エスペラントの学習をめぐるエスペラント運動のありよう、エスペラント使用者のエスペラント学習観である。
「できるほどよい」というおもいこみ
さきにみたエスペラントの理論的根拠と矛盾するエスペラント学習観とは、たとえば「エスペラントを学習することには価値がある。したがって、エスペラントを学習すればするほど、たかい運用能力をみにつければつけるほど、たかい価値が達成されることになる」というかんがえかたである。このきわめて一般的であろう思考のどこに問題があるのであろうか。
「より懸命にエスペラントを学習して、よりたかい運用能力をみにつけることはよいことだ」という思考は、「たかい強度の学習」によって「たかい運用能力」をみにつけたエスペラント使用者を運用能力のたかさに比例させる形で肯定的に評価するという行動様式となってあらわれる。たとえば、文芸コンクールのように、エスペラントの運用能力のたかさをきそうもよおしをおこなうことによって、たかい運用能力の達成者を顕彰することの背景には同様の思考がある。しかし、こうしたかんがえかたと行動はエスペラントの目的である言語権的価値を最大化することを第一にかんがえる立場をとるならば、あやまりである。「一生懸命エスペラントを学習する」ということは、最低限の必要学習コストをはるかにこえた量の学習コストを準備・投下することを意味する。したがって、そのような場合、言語権的価値はきわめてひくくならざるをえないのである。学習資源の投下量がおおく(過剰に)なればなるほど、いかにたかい運用能力を実現したとしても、その言語権的価値は低下するのである。
またこれとは別に、「たかい運用能力」そのものに付随する問題もある。「たかい運用能力」は、その保持者がコミュニケーションにおいて有利な立場を確保することを可能にする。その「有利さの程度」がいちじるしくなるにしたがって、その保持者は潜在的にコミュニケーション上の「過剰な権力」をおびることになる。そうした権力の存在は、言語権を充足するはずのコミュニケーションにおいて、言語権充足を阻害することがありうる[3]。換言すれば、言語権的価値実現のためであったはずの「たかい運用能力」は、言語権的価値の実現を困難にするという逆の機能をもたざるをえないのである。
理念にそったエスペラント運動へ
プラハ宣言にみられるエスペラントの理論的根拠に正当性をみとめるのであれば、「学習強度はたかければたかいほどよい」というおもいこみをすてなければならない。そのようなおもいこみをもってしまうのは、「英語病」と揶揄されるのとおなじ状態に学習者がおちいっていることを意味する。エスペラントの学習達成をいそぐあまり、「エスペラントの学習にはいかなる価値があるのか」という出発点をわすれてしまうことによって、そのような状況におちいるのである。
もちろん、個々人が言語権的価値以外の価値(たとえば、可能なかぎりたかい運用能力をみにつけることによる自身の満足感)を優先させ、膨大な学習コストをエスペラント学習につぎこむことは、その個人の自由である。しかし、もしその当該人物が膨大な学習コストの負担によって達成したたかい運用能力を、エスペラントの言語権的価値の達成であるかのように認識するとすれば、すなわち、普遍性ある価値を体現したとかんがえるとすれば、それはきびしく批判されなければならない。「エスペラントの価値」が多様であることを無視し、なんら普遍性のない価値の追求と言語権的価値の実現を混同することは、言語権的価値を否定するにひとしい行為といえるからである。
したがって、エスペラント運動においては、エスペラント運動が言語権的価値の達成をめざすべきである以上、大量の学習資源の投下が肯定的にみられてしまうことのないように、また、エスペラントの学習が「言語権的価値の追求のふり」をすることによって「言語権的価値以外の価値追求の場」とされてしまわないように、不断の批判的自己検証を、理論的根拠にたちかえりながらおこなわれなければならない。この「多様な価値」の混同は、「悪意」なしに、無意識のうちにおこなわれるのがつねである。すべてのエスペラント学習者はエスペラント運動を搾取する、つまりエスペラント学習を「私的価値の追求」に転化させたいという潜在的欲求をもっているといってもいいすぎではないだろう。そうした誘惑の存在をエスペラント学習者に対して啓蒙する必要もあるのではないだろうか。言語権的価値にとって「悪意のない、きまじめなエスペラント学習者」は「警戒すべき存在」なのである[4]。
以上をふまえるなら、エスペラント運動・教育においてまずおこなわれるべきことは、エスペラントの理論的根拠を出発点として、現在のエスペラントのありようを検証すること[5]、学習にかんしていうならば、言語権的価値をできるだけ最大化したうえで、学習コストを可能なかぎりひくくおさえるということを模索する態度をつねにもつことであろう。その場合、必要なのは、言語権的価値と学習コストの均衡点をさぐることである。それをぬきにしたやみくもなエスペラントの学習・学習の奨励は、エスペラント運動の基礎をほりくずすきわめて危険な行為なのである。
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[2] あくまで、必要条件であることに注意されたい。言語権充足的なコミュニケーションはエスペラントを使用することだけでは実現しない。使用言語以外にも言語権充足に必要なコミュニケーション上の要素があるからである。言語権充足的コミュニケーションとはいかなるものかという問題もエスペラント運動における理論研究の課題にふくめるべきものであるが、これにはJ・ロールズのいう「格差原理」(社会的、経済的不平等は、社会の最も不遇な人々の最大の利益にかなうものでなければならない)を応用できるのではないだろうか。コミュニケーション上の「資源分配ルール」として、言語権やエスペラント運用のありかたを構想するのである。
[3] たとえば、第一言語話者をまえにして非第一言語話者が萎縮するのはなぜかをかんがえられたい。これは第一言語話者の意志とは無関係におこる現象である(上記の拙稿参照)。また、エスペラントはすべてのひとびとが学習を必要とする計画言語であるから、その使用者間では、非計画言語の使用者間にしょうじるような権力関係がしょうじないというかんがえは、現実にエスペラント使用者間にある権力関係を隠蔽してしまっている。たしかに、エスペラント使用者間において、非計画言語使用者間にあるような権力関係は存在しえないが、「運用能力の差」だけによっても別種の権力関係がつくられているのが現実であろう。「たかい運用能力をもつエスペラント使用者をまえにして、ひくい運用能力しかもたないエスペラント使用者が萎縮するのはなぜかをかんがえられたい」。あまりに当然のことであるが、再度強調しておく。エスペラントによるコミュニケーションにおいて、たかいエスペラント運用能力をもつものは、ひくいエスペラント運用能力しかないものとくらべ、よりたかい水準で自分のほっするコミュニケーションを実現するという「利益」を享受することが可能なのである。この非対称な関係は言語権充足をさまたげる要素となりうる。
[4] もちろん、エスペラント運動の過程において、エスペラントに固有な文化的達成(たとえばエスペラント文学の振興)をめざすこと自体は否定されるべきではない。しかし、その達成が自己目的化するとき、手段(文化的達成)と目的(言語権充足)は逆転し、手段が目的を侵食することがおこりうるのである。個々のエスペラント使用者によるたかい文化的達成に「価値」はあるが、それはかような達成を享受できる一部のめぐまれたひとびとにとってのみの「私的価値」にすぎない(エスペラントの初学者・未熟者にとって「たかい文化的達成物」は存在しないのとおなじである)。「たかい文化的達成」の結果、言語権充足的コミュニケーションを阻害するような環境(過剰に権力をおびたエスペラント使用者の存在)がつくられたのではまったく意味がないのである。この点の自覚を欠くことは、十分な理論的準備をおこたってきた、現行のエスペラント運動の巨大な欠落・欠点であるといえよう。