かど
や ひでのり
(津山工業高等専門学校)
言語政策上の課題として,言語をめぐって社会的に生起する問題,なかでも基本的な人権を侵
害する類の言語問題を解決することがあり,それにはたかい優先度があたえられるべきことがほぼ社会的共通理解となってひさしい。そのような問題は多言語が
混在する社会内で少数言語使用者が甘受をしいられてきた立場の不当性を指摘することから社会的に顕在化しはじめ,その現象は「言語権」が否定された状態で
ある「言語差別」として概念化された。さらに最近では糸魚川(2003),あべ(2002)などにみられるように,言語差別概念が言語に内在化されたジェンダー,識字,表記法などをめぐる
諸問題までを包括しうることが論じられるにいたっている。本報告の課題は,それら多様な言語差別現象のうち,異言語話者間でおこる言語差別について,言語政策上の解決は
いかにしてえられるかを検討することである。
2.異言語話者間言語差別の特性−第一言語話者の権力−
異言語話者間の言語差別は,言語運用能力の格差を無視してコミュニケーションの成立をはか
ろうとするときに生じる。この格差は双方がコミュニケーション使用言語の第一言語話者でないときにも存在する。一般的に,言語はコミュニケーションを媒介
するものとして機能することを第一に予期されているが,運用される言語の能力に絶対的な格差がある場合,その想定をこえて言語そのものがコミュニケーショ
ンの中身自体に干渉することがたびたびおこりうる。言語上=コミュニケーション上の優位な立場はコミュニケーションそのものから優位な側にある話者のみが
利益をひきだすことを可能にするのである。これは,優位な側にある話者にその立場を「悪用」しないという「善意」があれば解消される性質ものではなく,構
造化された不可避の利益とでもいえるものである。たとえば,有利な立場にある「善意の話者」が言語上の優位性から,コミュニケーションおよびそこから生じ
る結果に関して不当な利益の享受を拒否したとしても,不利な立場にある話者がその内面でもつであろう「劣位の感覚」は解消されないからである。このような
構造化された優位性をもたらす立場にたったものは権力を有することになる。権力関係の維持と行使は物理的暴力をかならずしも必要とせず,他者を「自発的
に」従属させ,「みずから」行動させることによっても可能になる。そのときにはイデオロギーが重要な役割をはたすが,これは言語についてもいえることであ
る。
ある言語の第一言語話者と非第一言語話者が言語上のコミュニケーションをとるとき,そこで
はどういう状況が現出するか。非第一言語話者がその言語に習熟していないならば,コミュニケーションの不成立,中断がひんぱんにみられるだろう。そのとき
第一言語話者は,コミュニケーションが成立しない責任をその言語について「不勉強で無知な」非第一言語話者に一方的におしつけるという現象が一般的に観察
されるのではないだろうか。コミュニケーションの不成立という,その当事者がひとしく責任をおうべき事態に関して,第一言語話者はみずからの責任をとう/
とわれるということがないのである。
それでは,両者のあいだでコミュニケーションが中断されることなく十分に成立するならばど
うだろうか。この場合も権力関係が解消されることはない。計画言語でない言語は,学習が容易であることを意図して形成されていないため,その実態はいちじ
るしく複雑化した巨大な「慣習」の集積となっている。合理性・論理性を第一に尊重するわけではないその慣習という性質が,どの言語であれ,その学習・習得
をきわめて困難なものにしている。そのため第一言語話者と同等といえる水準の運用能力を学習者がみにつけることは,例外的にしか実現しない。また,「慣
習」とは日常の言語使用のつみかさねによってできるものであるが,慣習の根拠になる「つみかさね」に参加する「資格」が社会的に認められているのは第一言
語話者だけである。したがって,第一言語話者が非第一言語話者にたいしてくだす,その言語に関しての「ただしさ」の判断は,いわば神的視点からくだされる
絶対的なものであり,その基準に客観的根拠にもとづいた説明がもとめられることはない。かりにあったとしても,根拠をつくるのは第一言語話者であるから,
非第一言語話者に対してはいくらでも恣意的にふるまえる。このような第一言語話者/非第一言語話者の関係は,両者間でのコミュニケーションがいくら満足に
成立したとしてもなくならない。前者は後者に対してつねに心理的・象徴的優位性を確保しているのである。
3.第一言語話者不在のコミュニケーション
計画言語でない言語が,その第一言語話者が参加しない,あるいは参加する可能性がないコ
ミュニケーションの場でもちいられる場合は,上でのべたような,第一言語話者の特権性に由来する権力関係は存在しえない。しかし,第一言語話者の参加さえ
なければ,コミュニケーションは言語差別的にならないとすることはできない。巨大な「慣習」の集積である非・計画言語は,学習・習得がどの言語であっても
きわめて困難であり,かりに完璧な習得に成功したとしても,それには時間・費用など,莫大な資源の投入が必要である。それゆえ,非・計画言語の習得には経
済力や文化資本,被教育経験,居住地域の社会状況,個人的能力の不平等,すなわち社会の差別的構造が,直接・間接に影響する。しかもたんに影響するだけで
はなく,習得の成否には,それらの不平等が規模・性質を拡大再生産したうえで顕在化する/しやすいのである。
4.計画言語とその理念
異言語を第一言語話者とするもののあいだでおきる言語差別の解消をめざすには,「(1)第一言語話者と非第一言語話者のあいだには言語運用に関して絶対的な格差がある」および「(2)非第一言語話者のあいだにも,言語運用に関しておおきな格差がしょうじやすい」という問題を同時にとり
のぞきうる手段をもとめればよい。それは「第一言語話者が存在せず」かつ「学習が容易」な言語,すなわち計画言語である。おおくの計画言語のうち,現実の
使用にたえうることが100年以上にわたる実践によってしめされてきたのは,1887年に発表されたエスペラントのみである。これは異言語の第一言語話者間のコミュニケーションの脱差別
化=平等化を達成することができる唯一の手段,すなわち「平等化機能」をもつ唯一の言語である。したがって,エスペラントは「国際的」コミュニケーション
において言語差別的状況が発生することを抑制する手段となるのみならず,エスペラントが平等化機能をもつことをしってエスペラントを使用する行為じたい
が,必然的に反差別・平等主義の実践となるのである。もちろん,エスペラントの使用が貢献できるのは,冒頭でしめしたような,ある状況における言語差別の
解消のみである。しかし,その使用じたいがもつ平等主義の実践としての性格は,エスペラントがより普及していけば,エスペラントが直接には解消しえない言
語差別についても社会成員に意識化をうながし,解消の方向にむかわせる(=指標理念となる)のではないかと予想させるものである。それゆえ言語差別の解消
をかんがえたとき,エスペラントとその理念の普及は言語政策上,不可避の課題なのである。
参考文献
あべ・やすし(2002)「漢字という障害」『社会言語学』第2巻1号,pp.37-56
糸魚川美樹(2003)「自分のことばでかたるということ−
女性学における言語使用の社会言語学的分析−」『女性学年報』第24号,pp.108-126
か
どや
ひでのり(2001)「言語差別とエスペラント」『社会言語学』第1巻1号,pp.83-88
言
語権研究会編 (2000) 『ことばへの権利』三元社
ましこ・ひでのり(2003)「言語権のひとつとしてのエスペラント履修」『エスペラント研究』
第2号
Skutnabb-Kangas, Tove, Phillipson,
Robert, eds.(1995) Linguistic
Human Rights : Overcoming Linguistic Discrimination, Berlin